イケダツネオってだれ?
- 簡単なプロフィール
- イケダツネオという男
- 勉強嫌いの僕が勉強好きになったきっかけ
- やる気があればなんでもできるんだと実感した
- 夢を諦めた瞬間
- パーソナルトレーナとしてキャリアをスタートさせる
- 結婚もした
- 一般社団法人メディネクトを設立
- 読んでいただきたい記事
- 最後に
- お願い
簡単なプロフィール
イケダツネオという男
幼少期から好奇心旺盛で活発な子供でした。
落ち着きがなく、通信簿にはいつも「落ち着きをもちましょう」っと書かれるのみ。
人一倍負けず嫌いで、特にスポーツに関しての負けは認めたくない子供でした。
保育園は今でいうヨコミネ式教育な感じでした。
毎日マラソンコースを走らされ、順位を園内に掲示するシステム。
競争心の塊みたいな園児がすごく多かったのが印象的でした。
そのなかでも僕はトップクラスの負けず嫌い。
マラソンは毎日一位でした。
ライバルは安藤陸くん。
スタートダッシュがすごく早い子。
僕は後半追い上げタイプ。
中盤〜ラストで抜き去ります。
毎年一回開催される、市のマラソン大会では園児の部で600人中3位になりました。
でも、3位じゃ納得できずに泣き叫んでいた記憶があります。
それくらいの負けず嫌いでした。
園長先生は毎年アルプス山脈に登り、年賀状と一緒に山頂の写真を送ってくるような人で非常にアクティブな人でした。
定期的に保育園の園庭でキャンプがあります。
テントを張って、カレーをみんなで作り、夜は全員テントで寝ます。
今考えるとなかなか珍しい保育園です。
送迎バスは園長先生自らが運転し、そのバスもハイエースを改造した特注車。
どこから見ても一目でわかるほどのカラフルなバスでした。
それも園長先生渾身の力作です。
その環境のおかげですごく楽しい幼少期を過ごすことができました。
小学校に入っても基本的な性格は変わらず、負けず嫌いな子供でした。
6歳から始めた野球に没頭し、毎日のように親父と野球をしていたのが懐かしい。
勉強は全くできません。
小学校〜中学校はヒドイものでした。
ワースト5の常連だったのでテスト返却の際は点数も見ずに答案用紙をしまっていたのを覚えています。。
両親からは勉強しなさい!っと言われたことは一度もありませんでしたが、口を酸っぱくして言われていたことが三つほど。
- 挨拶をしっかりしなさい
- ご飯は残さない
- 人には迷惑かけるな
このくらいのことしか言われませんでした。
比較的に自由奔放に育ててもらった思います。
勉強嫌いの僕が勉強好きになったきっかけ
あれほど勉強をしなかった僕が勉強をするきっかけが高校入学直前に訪れます。
きっかけはこの映画を見てからでした。
この映画をきっかけに僕は消防士になると決めました。
「消防士 試験 内容」って検索したら相当勉強しなくてはならないことが判明。
それから必死に勉強するようになります。
中学時代の成績が悪すぎたせいで高校の選択授業は全て一番下のコースからスタート。
その時点でだいぶ遅れをとった形でしたが、今までの遅れを取り戻すかのように必死に勉強しました。
高校入学時点で行きたい大学には目星をつけていました。
東京消防庁への合格率が一番高い大学に行こうと決めていたのですが、高校三年間の評定平均が一定基準を満たさないと試験すら受けさせてもらえないといった条件がありました。
だから高校1回目の試験から成績にフォーカスしなくてはなりませんでした。
高校でも野球をやっていました。
高校は公立でしたが、千葉県ベスト16にはいるほどの実力がある高校でした。
公立なのに野球部だけは専用球場がありました。
練習は夜遅くに終わり、朝早くから始まります。
そのなかで勉強時間を作るのはなかなか大変でした。
でも、消防士になりたい!って情熱で溢れていたんですね。
全く苦になりませんでした。
もちろん野球も全力で取り組みました。
高校は主将も経験させてもらい、人間としてすごく成長させてもらいました。
高校野球で出会ったチームメイトは今でも仲良くしています。
そういった意味では、奥さんよりも僕のことを知っている貴重な友人達です。
やる気があればなんでもできるんだと実感した
高校1回目のテストがやってきました。
その結果は、、、なんと、、、学年9位。
大きな自信になったし、それ以上に今後の自分に生きる経験でした。
三年間を通して野球、勉強共に必死に取り組みました。
評定数値が決定する最後の試験では、学年3位になりました。
自分にとって努力するというのはどういうことのなのか。
そして努力したことで得られる自信、結果はどのくらい自分にとって大きなモノになるのかを実感した瞬間でもあります。
この経験は今までの仕事にも生きています。
基本的に仕事は向き不向きより、前向きさの方が大切だと思っています。
どの仕事でも自分のやる気次第でどうにでもなると思っているからです。
ひたすら目の前のことに夢中になる、そしてハマることで好きになっていく。
僕は高校時代から必死に勉強するようになってこのことに気づきました。
やる気があればなんでもできるということを知ることができたんです。
夢を諦めた瞬間
無事に当初から希望していた大学に入学しました。
しかも無理かなと思って受けた特待生試験で合格できたんです。
本当に嬉しかった。
無事4年生になり、東京消防庁で消防士になるために大学で実施していた講座以外にも専門学校の夜間講座にも通学していました。
そんなこんなで卒業が近くなったときに大学から一本の電話がはいります。
「後期の授業料が払われていない」との一報でした。
そこで判明したのが母のすい臓ガンでした。
母は内緒にしていたんですね。
母も辛かったと思います。
父も脳梗塞の影響でずっと自営業でやっていた飲食店を閉店していました。
家には残りの授業料を払えるお金がありませんでした。
学部長、ゼミの先生、友人たちが「お金を貸すから卒業した方がいい」っと言ってくれましたが、僕は卒業しませんでした。
授業料分を全て母の初期治療費にあてると決め、僕は大学を中退しました。
そして、大学を卒業して消防士になる夢も諦めました。
奨学金も借りて卒業できないって現実に嫌気がさしていました。
このときは本当に辛かった。
幸いだったのは、逃げ道がなかったこと。
頼る身内もいないし、父は脳梗塞の影響でそんなに無理はさせられません。
僕が稼ぐしか方法がなかったんです。
「よし、やってやる」って覚悟を決めました。
パーソナルトレーナとしてキャリアをスタートさせる
僕は消防士になったときのためにトレーニングの一環として、フィットネスクラブで4年ほどアルバイトをしていました。
当時からパーソナルトレーナーとしても活動していたので、この職業で生計を立てていこうと決意します。
アルバイト時代からパーソナルトレーナーという仕事は好きでした。
お客さんの目標達成に向かってサポートする仕事。
最初は選択肢がないなかで選んだ仕事だったかもしれません。
でも、結果として僕はこの選択をして良かったと確信しています。
両親が病気になっていなければ、この仕事で生計を立てていこうとは思わなかった。
不思議な縁ですよね。
22歳〜28歳まで本当にたくさんの経験をさせてもらいました。
この経験がなかったら今の僕はないです。
そのくらい濃い時間を過ごしました。
結婚もした
結婚もしました。
理解のある奥さんに感謝しています。
仕事ばかりだし、休みもほとんど合わないのでデートもあまりしてきませんでした。
そんな僕と結婚してれくれるのだからある意味すごい人です。
そもそも付き合うときだって一度もデートしていません。
外で会ってもいないんです。
契約先の店舗でたまに会うくらい。
そこから結婚までいくのだから人生って何があるかわかりません。
仕事ばかりしたいって僕の性格を理解してくれる貴重な存在です。
いつもありがとう。
一般社団法人メディネクトを設立
パーソナルトレーナとして活動していたときから、心のどこか片隅にはいつか医療分野で事業をしたいと思っていたのだと思います。
両親の病院を探しているとき、文面情報だけの医療情報に不便さを感じました。
医療機関を探すときにもっと患者目線での医療情報があれば、そして患者さんが医療機関を探すための一助となるサイトを作りたい。
いつからかそんな風に思うようになりました。
もっと医療情報をクリアに患者さんに届け、患者さん目線で訴求していきたい。
その想いを形にしたのが、Medinect|メディネクトです。
“患者自らも医療機関を選択しやすい環境をつくる”
自分が求める医療機関に出会える機会を創出すること。
それが僕の掲げる理念です。
読んでいただきたい記事
最後に
長くなりましたが、今までこんな感じの人生を生きてきました。
そして、これからは人生2度目の挑戦です。
自分が一番ワクワクしています。
これからの人生も濃いモノにしていきたい。
そんな想いで毎日生きています。
この記事をきっかけに少しでも皆さんに僕のことを知ってもらえたら嬉しいです。
読んでいただきまして誠にありがとうございました!
お願い
弊社団はたくさんの方々に支えられながら事業展開ができております。
これからも医療環境をよくするために様々なジャンルの方々とパートナーシップを締結していきたいと考えております。
今後とも変わらぬご支援のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
- 病院、クリニックに特化したWeb制作会社様
- 医療メーカー様
- 病院、クリニックへの出入り業者様
- 医療に特化した税務会計事務所様
- その他にも医療に関連した事業を展開している会社様又は事業主様
一般社団法人メディネクト
代表理事 池田恒夫